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- 東田町(近世~近代)とは
「東田町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 東田町(近世~近代)
江戸期~昭和32年の町名江戸期は大聖寺【だいしようじ】城下町のうち明治5年石川県に所属同22年からは大聖寺町の町名大聖寺城下の南西部に連なる丘陵北麓に位置する江...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7327288]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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東田町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は萩城下28町の1つ西は西田町,北は下五間町に接し,東と南は新堀川に面する当町内を本町が東西に横切り,頓振町・雑賀下り筋が南北に走り,南側の新堀川に沿って新堀筋が通る町名は,昔当地が田地であったため田町と名付けられ,それが東西に分かれた(萩諸町之旧記草案)当町の成立の時期は明らかではないが,寛文7年に幕府巡見使が来萩した際の回答書に当町の名が見える(波多野氏記録雑要集抄)宝暦元年萩大絵図付録の記録(寛延3年改)によると,間数464間,総竈数190,うち本軒38・店借149・内貸屋3,ほかに蔵30がある新堀川に架橋され当町と唐樋町とを結ぶ幸橋の北側には高札場が置かれ,唐樋札場と呼ばれ萩城下の中心地となった唐樋札場では罪人の晒も行い,また防長両国の諸所に通ずる道の基点として,ここから里程を数えた明治12年には上五間町外6か町からなる萩北部東組を形成し,同17年には今古萩町外11か町からなる萩北組に属した明治16年の戸数209・人口966(県の統計百年)同22年萩町,昭和7年からは萩市に属す明治30年,萩郵便電信局が西田町から当町内に移転 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東田町(近世~近代) 江戸期~昭和40年の町名明治17~22年は富山を冠称富山城下田地方【でんじかた】町分二十九町の1つほぼ中央部で鼬【いたち】川の右岸に位置する町名の由来は,かつて「あずまたんぼ」といった所であるという(富山市町名の由来)安永8年には1~2丁目があり,家数69,うち本家38・貸家31(町方旧記抜書/県史近世下)天保12年には丁目数は変わらず,本家貸家竈数95・人口398,うち男185・女213,橋数3(富山町方旧事調理/県史近世下)明治9年石川県,同16年富山県に所属同22年富山市東田町となる戸数・人口は,明治42年81・人口318,うち男163・女155(富山市統計書),昭和4年57・242,同30年50・250昭和40年現行の向川原町・泉町1~2丁目の各一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東田町(近世~近代) 江戸期~昭和39年の町名江戸期は岡山城下の1町,武家地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名田町が西田町・東田町・下田町などに分かれて成立町域の中程に,西の西田町へ抜ける小路があり,また南端には正覚寺裏と接する袋町があった明治8年新田町を,同11年蓮昌寺堀端町を合併昭和7年の戸数414,人口1,611うち男784・女827(旧岡山市史6)同39年田町1~2丁目・磨屋町・平和町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」